I’ll be thereと言わせて
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sara moonです。こんばんは◯
本当は予定していた書きものが山積みなのに
いま、衝動的にキーを打っています
最近よく聴いているこの曲
なぜだか、とても歩きやすくて。
Jess GlynneのI’ll be there (Cahill Remix)
I’ll be there for you
わたしはあなたのためにここにいるから
恋愛についての曲なのだろうけれど
私は自分勝手な解釈で歌詞を受け止めている。
ついさきほど(本当についさっき)
大阪メトロの梅田駅から歩いていた時のこと。
”I’ll be there”を 聴きながら一定の速度で歩いていると
それとは対照的に、目の前の階段を
松葉杖をついた女性の方がものすごくゆっくり
不便そうに降りていくのが目に入った。
(荷物も2つも持っていて、ちょっとしんどそう)
「松葉杖もちましょうか?」
いや松葉杖は必要か…「お荷物お持ちしましょうか」かな?
私が声をかけてもよいものか
何と声をかけようかとオロオロ悩んでいる間に
無事、階段は降りられたようだった。
彼女はその後、松葉杖をひとつずつ両脇に抱えて
ヨイショとその重たそうな荷物を持ち上げると
またゆっくり、少々頼りない足取りで
一歩を踏み出したのだった。
もしかして駅に向かっているのだろうか。
私は、その女性の後ろ姿に
闘病していた生前の母の面影を感じていた。
大学3回生を終えようとしていた当時
私の母は、10年以上経って完治したと思われていた
病気の再発が発覚して闘病生活を始めた。
私は一人暮らしを始めたばかりだったけれど
4回生の夏から半年休学することにして
母と過ごすことにしたのだった。
私がついているのだから大丈夫
絶対に復活させるのだという気持ちと
もしかするともう長くはないかもしれないから
少しでも一緒に時間を過ごしたいという気持ちとが
正直なところ混在していた。
初めて母の病気を知ったのは、幼稚園に通っていた頃。
おばあちゃんの家に預けられていて
母と会えるのは決まって病室だった。
毎晩ソファーの隅に隠れて静かに泣いてたよ、と
いつも聞かせてもらうのだが
自分でもよく覚えている。
最初の闘病生活を終えてやっと帰ってきてくれた母は
薬の副作用で髪が抜け落ちてバンダナを巻いていた。
また、母は温泉が大好きだったけれど
体の一部も手術で切除していたので
いつも身体を念入りに隠していた。
幼いながらにずっと感じていたあの時の心の痛みと
自分が何も力になれないという不甲斐なさを
今でも鮮明に思い出すことができる。
再発が診断されてからまもなく
病気の進行に加えて、強いお薬と度重なる検査とで
傷んだ身体は自立することが難しく
松葉杖を手放すことがままならない状態にあった。
そのような背景から、
目の前の女性が実際にどのような状態にあるのかはさておき
少しでも力を貸せないかと考えずにはいられないのだった。
完全に自己都合である。
見ず知らずの人にいきなり話しかけらたら困るかな、とか
余計なお節介かもしれないな、とは思いつつも
様子を伺いながら、最終的には声をかけることにした。
なるべく驚かせてしまわないように。
「すみません、急にお声をおかけして…
よければ近くまでお荷物お持ちしましょうか?」
「えっそんな、申し訳ないです!大丈夫ですよ。
ありがとうございます」
このときに一瞬で引くべきだったかもしれないが
「そうですか?ではこれで」と即座に去るのも
なんだか違う気がする。
ここで私は、自分が数年前に
フリースクールの階段を3段登ったところから落ちて(なぜ?)
しばらく松葉杖生活をしたことを思い出した。
病院の先生には、恥ずかしくて3段とは言えずに
「さ、4段目ぐらい…かもです」と謎の盛り申告をしたことまで
うっかり思い出してしまった。
その時、毎日通っていたカフェでお店の方が
「大丈夫ですか?お席まで持っていきましょうか?」
と言ってくださったのに対して私の返答は
「ありがとうございます、大丈夫です」。
とはいったものの、実際には大丈夫ではなく
お願いしたわけでもないのにトレイを下げてくれたり。
色々お世話をしてくださったことに
とても感謝したのだった。
普段から、いつも誰かに助けてもらって生きている
という実感がある。
よし、あと一言だけ。
「ほんとですか?でも、あまり大丈夫じゃなさそう…。
どちらまで行かれるんですか?」
「あ、北新地駅までいきます」
「では、よければ駅までお持ちさせてください」
「えー、いいんですか?ありがとうございます、、」
マスク越しに微笑んでくれていたのが分かったので
本当に迷惑じゃなさそう、よかったと思いながら
彼女の隣で一緒に歩き始めた。
この速度、なんだかちょっと懐かしいかも。
ここで私は再び、一瞬の回想を始める。
この投稿をInstagramで見る
ウェンディと使用者さん、元気かな?
(回想おしまい)
その方は、脚にヒビが入って最近ギブスが取れたばかりで
回復に向かっているが、あと2週間ぐらいは
十分安静に様子をみなければならないと言われていること
今日は午前中リハビリに行き
さっきまでお友達と会っていたことなどをお話ししてくれた。
今まで自転車移動だったのが
バスやタクシーでの移動になってとても不便だとも仰っていた。
「でも良くなってきたの、ホントよかったです…。
今が大事な時期ですね。
カルシウムたくさんとってくださいね」
そう相槌を打ちながら、私は誰?と自分でツッコんでいたが
私以上にその女性の方のほうが
「この人誰??」と思っていたにちがいない。
この少し重たい荷物には
お友達からもらったお土産が入っているんだね。
そう思うとちょっと嬉しかった。
(本当に私は誰?)
「やたらと人を助けようとする人というのは
実は自分が助けられたいということの表れなのだ」
という言説が注目されている様子を
少し前にSNSで目にした。
(この言い表し方自体、少し意地悪だなと思わなくもない)
あれは…何コンプレックスっていうんだっけ?
断片的なワードをワード検索に打ち込む。
救世主症候群。通称メサイアコンプレックス。
正式な「病」としての診断名ではなく
心理的傾向のことを表すらしい。
ChatGPTに示してもらった内容をまとめてみると
「自分が他人を救わなければならない」という思い込みや使命感
あるいは
「感謝されて自分の存在価値を確かめるために行動する」
という動機から出過ぎた態度をとってしまうことに対して
使われる言葉なのだそう。
自分の行いが正しいのか間違っているのかと
いちいち悩むし、後悔することはよくある。
メサイアコンプレックスといわれるものに
当てはまるのかどうかは分からないけれど
目の前にいる誰かが喜んでくれたり
困った状況から逃れられたとき
私も救われたように感じるのは事実だ。
結果として誰かに感謝されるのは嬉しいことだし
それによって自分の存在価値を感じられるという部分も
冷静に振り返ってみると、少なからずあると思う。
しかし、助けたい気持ちが先行してしまい
かえって迷惑になってしまうのだなんて不本意だし
本末転倒だ。確かにそれは間違ってはいけない。
心から誰かの力になりたいと思う人が
そんな結末を願うことはきっとないだろう。
やはり、他人と関わる上で相手のペースを尊重したり
バランスを意識することはとても大事なのだと思う。
なかなか見知らぬ人のことを信用しづらい世の中で
そんな自分の勝手な申し出を受け入れてくれて
ありがとうございますという気持ちが大きかった。
この先も自分の行いの正しさについて
悩んだり、間違えてしまうことがきっとたくさんある
そんなふうに選択に迷ってしまった時には
これまで自分にかけてくれた優しい人たちの言葉や態度を
また同じように思い出してみて
ヒントを得てみたい
背伸びせず、真っ直ぐな I’ll be there for you. を
いつも心のちょうど良い場所に
もっておきたい。
実際は逆で、助けてもらってばかりなのだけど。
あなたにとっても
困ったときに手を貸してくれる誰かが
身近にいてくれますように。
さて、そろそろ本来の作業に戻ります
それではまたね
Good night~