横浜美術館のNUDE展を読み解く

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NUDE展

NUDEを美術史的に追うとあらゆるコトが見えてくる。

現在横浜美術館で開かれているNUDE展は、イギリスとテート美術館に展示されているものの中からNUDEに関するものを展示しています。歴史的に、そして客観的にNUDEにせまることによって、NUDEの秘密を探るというのがこの展示のテーマになっています。NUDEは、どの時代も描かれ、あらゆる画家たちがNUDEを題材に作品を作り出してきました。

私自身、大学生の時までNUDEの魅力をまったくもって感じていませんでした。どの作家も裸になったり、裸を描いてみんなが同じ事をする時点でありきたりだと思ったし、つまらないと思っていました。しかし今になってNUDEの面白さというのも感じています。

今日(こんにち)もヌードを通して様々な物議が問われていますが、それもそのはず。ヌードは常に社会の間でゆれ動く人間にとって何よりも身近で、普遍的で、プライベートな媒体のため、いつ何時も、賞賛されたり、批判されたりするのです。NUDEはそうやって何度も何度も社会の中で揺れ動いています。

展示を見るためのオススメポイント

今回の展示でのおすすめポイントがいくつかあります。まずできることなら音声ガイドを聞きながら見ること。こういった分析するタイプのものは絵や概略だけをみても意図を読み取ることが出来ません。ガイドがあればより展示の意図を読み取ることができます。そして何よりも客観的に見ること。NUDEはあまりにも人のプライバシーの中に入ってくるものなので、主観的に物事を捉えてしまいがちです。歴史背景からNUDEがどういったことを示すようになったのか、そしてNUDEによる様々な表現とその意図を客観的に見るようにしましょう。また音声ガイドを参考にと書きましたが、今回の日本で展開されたヌード展は、少し偏りがあるように感じたので、シドニーで開催された時のPR用の動画をみておくと展示だけでは感じることのできないNUDEの役割を知ることができるはずです。また、今このタイミングで動画をみると、この記事のネタバレにも繋がるので、記事の小タイトルにこのタイミングで動画を見て欲しい!という感じで動画を貼り付けていますので、そのタイミングでまず見ていただいて、NUDE展を見にいく前日に動画を見ていただけるとベストかなと思います。


理想美としてのNUDE

美、強さ、現代性、超現実、欲望。このNUDE展ではNUDEにおける様々な意図(表現)を説明しています。その中で私が注目して欲しいジャンルを紹介することにしましょう。まず最初が「理想美」です。このNUDE展が始まりとして説明している最初のブースが、もともとNUDEを描(えが)く最初の理由となっています。(19世紀)。いかに美しく、誘惑的に人々を魅了するのか。あらゆる画家の技法では、その美しさを追求するために何人ものNUDEをデッサンし、そのパーツを組み合わせたと言います。艶やかで均一的に描かれた女性像と筋肉美溢れるいわゆる「強さ」を表現している男性像を比較して見るのも楽しむための1つです。そしてこの話は以前記事にしましたが男性性器に注目することもお忘れなく。(多分殆どの隠す系のしか展示されてなかったかもしれませんが)。この時代の男性性器は包茎のポークピッツに描かれています。それがその時代の男性の良いシンボルとして描かれているからです。因みに私は理想美の男性像が大好きです。理由は美しいから。

少し話が逸れましたが、19世紀はなにかと理由がなければ裸が描けなかった時代でした。だからこそ、画家たちはこぞって聖書の話につけ込んで裸を描きます。そしてNUDEが生々し過ぎれば批判されることもありました。人々の(欲)情をを掻き立て過ぎるとそれは生々しいと批判されます。美しさや魅力は、まるでグラスに注がれる液体のように、溢れると怒られ、ちょうど良い量だと美しいと賞賛されます。生々しさはどこまで許されるのか。そのグラスの大きさは、例えその描き手のグラスの大きさと違っても、その時代の社会の目で作られています。

 

 

皮膚は内面を映し出す。

真実は人間の口からのみ語られるものだと思っていませんか?口は思った以上に嘘をつきます。実はなによりも感情を伝えているのが皮膚(NUDE)。服を脱いで露わになった皮膚は、なによりも感情を映し出し、社会の背景さえも映し出します。参考として今回展示されたヘンリームーアの「倒れる戦士」という作品。20世紀前半の作品です。かつて何世紀もの間、男性のヌードとして描かれてきたものは、勝者であり、強靭であり、不死の象徴として描かれてきました。しかしここに落とし込まれたNUDEは戦士の像でありながら、硬く作られたその体は傷だらけ、痩せた手足は痛ましげにねじ曲げられています。まさに戦士が吹き飛ばされ、倒れゆく瞬間です。苦痛の感情がそこに見えるでしょう。世界大戦後のNUDEの表現は、社会背景も含め、人間のマイナスの感情にも入ってきたのです。また、ベーコンのヌードは死にゆく皮膚(NUDE)に生命力と儚さを与えています。そのNUDEに対する表現力は動画を見てのとおりです。

 

フェミニズム(女性の視点)の介入

『ユートピア、すなわち完全なる平等、言うなれば無意識に実現している世界では女性のヌードが問題になることはないだろう。しかし現実には女性のヌードが問題を引き起こしている』

70年代になって、NUDEの視点にまた新しい視点が増えました。それが女性の視点です。今までは男性から見た女性の皮膚が多かったのですが、それを見た女性が男性だけのNUDEはおかしいと思い作品を作り始めたのです。この絵はわざとらしく、男性が女性のNUDEに向けられてきた視点を男性のNUDEでやっているというアイロニーが含まれた作品になっています。また、作り手のシルヴィアスレイは実際に関係をもった男性とのNUDEを描いているというのも面白い点。欲望の伝統の主観を逆転させた歴史的瞬間と言って良いでしょう。

また、このブースは、主に女性が描き手となって創作された作品が数多く展示され、今まで見てきた男性から見るNUDEと、女性からみるNUDEを客観的に比較して見ると、実際、そのメッセージ性や意図の違いがわかります。

欲望

NUDEという媒体で中でも人々の心を掻き立てるのが欲望にまつわるNUDEです。欲望とはつまり何か、動画の中では欲望をあくまでも綺麗な話としてアダムとイヴの話に例えている場面もあります。りんごを食べたその瞬間から人々の肉体には罪と性を背負ったと。欲望は理性の中に佇む本能の情。人々はそこに罪の意識さえ感じ、時に美しさにも感じています。自分では解読できない不思議な情は芸術家達を刺激してきました。描かれた感情(NUDE)は、言葉には出来ない人の内面にある欲情を反映させることも出来るのです。

 

ロダンの接吻(THE KISS)の第三者の介入という美学

『欲望は自然の法則を問い直す。解剖、重力、時間、言語。これらの規則を否定するのが欲望』—ルイーズブルジョア

ここまできて展示にも音声ガイドにも動画にも説明されていないNUDEの魅力を書いてみましょう。これは私の勝手な解釈になってしまいますが私が感じたことを書きます。今回の展示では200あまりのNUDEに関する作品が展示されていました。その中で一際目立って見えたのがロダンの接吻(THE KISS)です。確かにこの展示のPRとしてメインに展示されているということもありますが、私はそれだけでないと他の作品と区別化できるモノを感じています。

多くのNUDEの表現は、描き手からの主観的な欲望、社会に対する主観的な主張を感じます。もともと芸術とは、クライアント(相手)がいるデザインといわれるものとは反対で、相手を無視して自分の想うことを表現したり、自分の内面性を具現化する非常に主観的な媒体です。理想美を追求している19世紀の絵画も「私はお尻!尻フェチなの!!」とか「この贅肉感と艶やかさがそそる!!」という描き手のフェチズムが見えるといった、欲望や美観の主観性が見えます。モデルはあくまでも描き手の操り人形でしかなく、描き手がどういう想いでこのモデルを見ているのか、またはどういう主張をNUDEに反映しているのかといった、描き手の主観的なものを我々は想像するのです。

しかしロダンの接吻(THE KISS)は客観性があります。鑑賞者は接吻(THE KISS)をみて、作り手のロダンではなくモデルの、二人の情を想像するでしょう。どういう気持ちで接吻という刹那を感じているのだろうか。動画でも述べられた通り、私たちは二人の表情を覗き込みたくなります。そしてその表情が見えないばかりに、その生々しさの中にある感情を皮膚(NUDE)を追って想像します。それが第三者の介入です。見る側も、(おそらくロダンという作り手も)この二人ではないのです。あくまでも私たちは第三者の人間で、二人の接吻の、刹那の感情を読み取ろうとします。これは主観的に生きる私たちにとっては不可能な感情です。

主観的な「情」はあくまでもこの単体の「情」しか読み取れません。しかしながら第三者の視点は「二人」の感情を読み取ろうとします。全てを委ねるかのように体を授ける女性の感情は、激しくも優しく女性の体をささえる男性の感情は、人間の内面を表現する皮膚(NUDE)が二人の感情を示唆します。あくまでもここは「情(身体から切り離れたもの)」を読み取ることで、脳内レベルのセクシュアルなまぐわいの美しさを感じているのではないでしょうか。そんな他者の情をみて、若者に悪影響を与えるとして一度は布で隠され、多くの人に美しさを評価され、再び布を外されるほど、この作品は人を魅了しています。

NUDE

一言でNUDEと言っても、それは時代ごとに意図が変わってきます。最初に述べたように、NUDE、つまり全てを曝け出した身体は、人々が人体を持って生き続ける限り、どの時代もそしてこれから先もあり続けるものです。つまり、私たちが生きている今も、NUDEに込められた時代的な背景が作られており、数年先にはまた違う意図がNUDEを通して語り継がれるのです。


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