「言葉を離れる」ということ

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運命とはなんだと思いますか?

 

 

宿命って何が違うと思いますか?

 

 

私はよくブログでも本を活用して説明したり、資料を集めるとなるとまず真っ先に本を探します。が読書に関しては幼い頃から本当に苦手で今でさえ必要だと思うから半ば強制的に読んでるだけで、首は痛いし読み終わるのに時間はかかるし言葉は難しいし内容によっては読み進めても全然理解できない時があり、苦痛でしんどくて、できれば避けたいところではあります。

 

話は変わりますが私が人より冷え性だと感じ出したのは中学の頃で、冬の体育館を裸足でやらなきゃいけない柔道や、冬の持久走は半袖にならなきゃいけなかったりした時(今じゃありえない気がしますが)本当に身体がもうおかしくなるんじゃないかというくらい震え上がり体を動かしても暖まって動きやすなるという感覚を感じたことがなかったですし、年齢を重ねていくうちに夏場の冷房が効いた部屋で体調不良になることが多くなり身体が受け付けなくなりました。

 

 

本が苦手なのも冷え性なのも生まれ授かった運命とも言えるし、体質という言葉で片したら体質な気もします。

 

 


 

 

私は今回ブログを書くにあたって、一冊の本を買いました。

 

 

題名は美術家である横尾忠則「言葉を離れる」という本です。

 

 

 

 

 

その本を選んだ理由は自分の好きな音楽やアートを調べると何故かこの人の名前がよく出てくるので、この人は結局何者なんだろう。と思ったから。というざっくりした理由であり感覚的なものです。

 

 

ところが読んでいると面白いことに、一柳慧(オノヨーコの1人目の婚約者)を始め、ビートルズ、ジョンとヨーコ、前回ブログで書いたゴダールの映画やアンナカリーナの名前がゴロゴロと出てくるのです。

 

 

 

冷静に考えると、年代がガッツリ被っているのでまあそうか。と思うのも納得なのですが私は60年代の全てを知ってるわけではないし、たまたま好きなアーティストが60年代デビューで、たまたま気になった映画監督の作品が60年代に多くて、ただそれだけなのにこんなにも私の知識としてしっかり知ってる人が出てくるのは正直とても驚いたもので、自分で呼び寄せてるのか?と自意識過剰な気持ちにも簡単になったのです。

 

 

つまり、年代的に繋がりがあるからこんなにも知ってる名前がゴロゴロ出てきた。と捉えるのではなく、本の内容も作者のこともさほど知らないで買ったのに、私が呼び寄せている。と運命的に感じたかった。ということだと思います。

 

 

ということは私がこの本を書店で選んで買ったのも理由があって選んだのではなく、運命的に選ばされたのではないか。とさえも思えてくるのです。

 

 

そもそも読書というのは、上記で私が書いたように、物事を調べるのに一番手っ取り早く、絶対的に事実である保証があり、全てわかりやすく文章で物事を伝えてくれます。(小説はまた別の話ですが)

 

 

つまり、言葉にして説明してくれているということです。

 

 

 

私はこのサイクルに慣れてしまったせいか、なんでも理論的な理由や説明がないと、しかもそれに自分が納得できないと何かをしたり考えたりすることが出来なくなりました。

 

 

感覚的に何かをやる。ということが出来なくなり意味のないことはしたくない。という言葉にするとなんとも硬すぎる脳になってしまったのです。

 

 


 

 

 

今回読んだこの「言葉を離れる」という本も最初は、運命と宿命の話からはじまり、横尾忠則が幼少期から読書が苦手だったという話から始まります。そして、読書というのは吸収したと思ってる知識も単に暗記で得た一種の社会的アクセサリーだと語り、自らの体験から学んだ人生の智慧に変換されている人に比べて意を成しているのかどうか。ということから始まります。

 

 

つまり、上で述べたいのは本を読んで賢くなるよりも経験から学んだ方がよっぽど身につくではないか。ということです。

 

 

先ほど私が言っていた本を活用することで全てに意味を持ってよく考えてから行動するのとは真逆の考えです。

 

 

それを言葉として考えたらどうでしょう。

 

 

私は前回見たゴダールの映画「女と男のいる舗道」の11章の老人の言葉を思い出しました。

 

 

人間も言葉を裏切る

書くようには話せないから。

 

言葉に自信を持つべきだ。

つまり何も傷つけない言葉を見つけるべきだ。

 

これは俗にいう「言葉に責任を持て!」ということになると思うのですが、責任を持つということは考えてものを言え。ということになります。

 

私は言い方一つで伝わり方は180度簡単に変わると思うし、語彙力は知識から得るものとしてもそれを使いこなすには十分な想像力を伴うものだと思うので結局は経験がモノを言う。と考えます。

 

 

だからこそ言葉に責任を持つのは当たり前のことだと考えてきました。

 

 

この本を読んで気付かされたのは、人は言葉に頼りすぎている。という事。

 

 

言葉を理解するのに頑張りすぎているという事です。

 

 

もちろん私は接客業つまり話すことが仕事の一つでありながら、このブログに携わらせて頂いてるので文章、及び言葉を要することが多くある私に対して、著者の横尾忠則は美術家であるので言葉は要さないしむしろ作品は作品でありこれを言葉で説明するなど不必要で、アートはアートでありそれ以下もそれ以上もない。という感じなので同じように考えるのはとても難しいとは思うのですが。

 

 

中盤で話した、私の脳が硬い考え方になってしまった。という話に関して、もっと自由に開放的に考えてもいいんだ。と思わされたのです。

 

 

何か意味のあることを、何か身になることをしないと!となんとも生きてるだけで忙しない考えな私にとって「言葉を離れる」とは時にはもっと感覚的でいいし、全てを言葉で表現しようとしなくてもいい。と思わせられました。

 

 

言葉は肉体から発されるものだか、絵画ほどに肉体的ではない。

文学は論理的で観念的。

 

したいからしてる。

したくないからしない。

その理由を言葉にする必要なんか全然ない。

 

前に読んだみうらじゅんの「ない仕事の作り方」を読んだ時も同じようなことが書いてあった気がします。

 

 

人生の余白を楽しむ。って結局は意味のないことをどれだけ楽しめるかだと思うし、意味のないことをどれだけできるか。な気がするしそれが出来る人が結果的に余裕のある大人だとか、遊び心のある人。の言われるような気がするし、これが私の目指す大人像であると改めて思わされました。

 

 

日々考えすぎてしまう私にとっては意味のないことを楽しむとか、人生に余白を作ることがとても難しいのですが、意味のないことの経験が言葉に頼らず得られる智慧に繋がる事を楽しみに心ゆくまま流れに身を任せて生活してみようと思います。

 

 

考えろと言ったり、考えるなと言ったり定まらない私のブログですがそんなものケースバイケースです。大きな決断を間違えることも後悔することもあると思いますがそれも人生であり運命なのです。

 

 

そう思えば少しは気が楽になるものです。

 

 

今月は個人的にたくさん考えることがあった月で、この本を読み進めるのも気が気じゃない日々が続いて伸ばし伸ばし今日までかかってしまったのですが、内容を吸収できているのか不安になりながらも読み進めた本に対して、今の私だから得られた感想を持ててよかったです☺︎

 

 

岡本太郎に引き続き美術家およびアーティストの出す本は今一度今後の人生というより生き方について今より更に考えさせられる気がします。

 

 

 

私と同じように物事を考えすぎてしまう方、今の生活になにか物足りなさを感じてる方いましたら是非、「言葉を離れる」読んでみてください😉

 

 

また個人的には、この本に出てくる面々がとても豪華で、最初にお話ししたビートルズやゴダール含め三島由紀夫や黒沢明など横尾忠則を取り囲む面々の発言もとても刺激的でや魅力的です✨

 

 

明日から世は6月で暦上は梅雨の時期に入るので、おうち時間など余裕のある時に読んでみてください☔️

 

 

-end-

 

 

 

 


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