アヴァンギャルドに生きる今日の芸術
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アヴァンギャルド
意味=もともとは「前線」や「斥候」を意味するフランスの軍隊用語。 芸術上の「前衛」をも意味するようになったのは19世紀前半頃とされるが、その後の1世紀を通じて、この語の定義は徐々に脱政治化され、「芸術の自律性」に即したものへと変容していった。
今日は後者の「前衛」の意を持つアヴァンギャルドについての話。
上記にもある通り、芸術に対し先駆けて行う様や新しい見方の表現から使われてきた言葉で音楽でも棘のある表現や、過去にない作品を前衛的である。と表現したりしますよね。そこから特にジャンルに属さない音楽がオルタナティブと呼ばれたり、ロック界隈に多く聞く表現かな、と個人的には感じています。
前衛的である。ということは常は新しくいなければならないということで一度新しいと言われてしまったものは途端に新しいものではなくなる。というなんともシビアで厳しいラインがそこにはあってそんな”新しい”ものを作り上げる戦いのような接戦と隣り合わせながらも己の表現を貫いてきた日本の芸術化、岡本太郎の話を今日はしたいのです。
今日の芸術は
うまくあってはいけない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。
と言う言葉を残しているのですが、アートというものはその良さを理解できずとも美しいと評されるからこそ無くならないものだと思っていました。
上の言葉はアートの見方、ものの見方に対して強く鮮明を受けた言葉でぜひ皆さんにも心しておいてほしい。と勝手に思っているので簡単に説明したいと思います。
芸術はここちよくあってはならない
皆さんは美術館やアート作品の展示会などに行ったことはありますか?
それが有名な画家の作品であれ、見ず知らずの人の作品であれその作品と向き合ったとき何を感じましたか?
きっと作品に対して、アートに対して意欲のある人は悔しいながらも「…わからない」となった経験はないでしょうか。
そんな作品ばかりが並ぶ展示会だったら心地良さや安らぎ、イマジネーションがどうのこうのとか言ってる暇はなくきっと苦しむと思います。
アートというのはのちに詳しくお話しするのですが、常に新しくなければならないのです。
冷静に考えて今紙と鉛筆を用意して模写ではなく何か自由に書いてください。と言われて書けるでしょうか。
私は、まず本当に致命的に画力もないしきっと想像を絵に反映させる技もなく苦しむと思います。
やったこともありますが、度がすぎる落書きで落胆したものです。
だからと言って人は根本は皆同じで(だと思っている)優れている、向いている、などはあっても自由に描くということはそれくらい自分と向き合って、時には無になって、キャンパスと向かいながら来る日も来る日も筆もつけれず、なんてことも多々ある中で言ってしまえば自分自身との精神的な戦いに過ぎないものを日々こなしながら作品を作り上げているのだから、見る側もその緊張感と挑む気持ちを持って当たり前ということです。
それがここちよくあってはならない。ということです。
私も何度か美術館やもちろん、岡本太郎美術館にも行ったことがあるのですが、一つ一つの作品の意を汲み取りながら精神を鍛える気持ちに度々切り替えつつ向き合うのはとても体力を使うもので燃え尽きた経験が何度かあります、、、。
芸術はきれいであってはならない
ここで話すのは「きれい」と「美しい」の違いです。
例えば花とか富士山とかをきれいなものと認識したとします。
そうすると人は見もしなくとも、花は綺麗である。という過去の認識から見もせずともきれいね、などと簡単に言えてしまうのです。
例えば綺麗だ、と思う人がいたとしましょう。
その方と友達にでもなれたとしましょう。
そうすると最初はとても綺麗な人だと思っていても2日3日経てばその綺麗さに慣れてしまうのです。
きれいとはそんな単純な形式美を指す。と岡本太郎は言います。
つまり自分の精神で決めるものではなく、時代の典型、約束事のようなものに縛られた型によってきれいかきれいではないかが決まるのです。
ところが美しいというのは場合によってはグロテスクなもの、みにくいもの、不快なものにも使える言葉でゾッとする美しさ、などと言う表現もありますよね。
一度目にするとなんでか気になってなんでか忘れられないようなものは、無意識のうちにその作品やその人に魅力を感じているからなんだなーと感じたし、それがここで言う美しいという意味なんだと思いました。
芸術はうまくあってはならない
少し上記の内容に似てるのですが、例えばずらっともう誰が見てもうまい!と思う絵が並んでいるとしましょう。
きっと安らぎなり穏やかな気持ちになることでしょう。でも何故だかそれで終わりなのです。それ以上でも以下でもない。普通にうまい。以上。
その場を離れた時、もう何を見てたか覚えていない。ではなんの意味もないのです。
肝心なのは何が心を打ってくるか。
うまければいいという問題ではないのです。
それはきっと歌であれ演技であれ表現するもの全てに言えることで団体の中にいてみんな同じことをしていても人一倍何故か目を引く人。て稀にいると思うのですが何か表現しよう、伝えようという気持ちが人一倍大きく出てるからだと思うのです。
ことによっては基礎があってのものですが、それは決してうまいからではないのです。
なるほど。
実になるほど。と何か全てが腑に落ちた気がしたのは私だけでしょうか。
私は小学3年の頃から高校卒業までずっとダンスを習っていたのですが、毎回発表会やイベント、高校は公演があり年に何度か人前で踊るタイミングがありました。
そうとなれば目指すはセンターで、真ん中に立ちたいが故に仲間が全員ライバルに切り替わるタイミングでもあるのです。
もちろんセンターなんて何十人という中の真ん中に立つわけですからそれが数秒であってもセンターに立てるということは誇りで自信にもつながり信頼も得られるとても大きな経験なのですが実力だけでは選ばれないのです。
目がいってしまうスター性、存在感とダイナミックかつ圧倒される動きと表情、見てる側も一緒に踊ってる側も雰囲気ごと引っ張っていくようなパワーがあるからこそセンターに立てるし、その全てを補うには時間も体力も精神も削って練習を重ねる必要があったと思います。
これこそうまければいいということではなく、記憶に残る美しさであるべきで、見る側も一緒に空間を作り上げる為に心から楽しみ、世界観に入り込み、応援するからこそ心地よい、よりも達成感のようないい疲れを感じれるのが岡本太郎のいう芸術論なのではないかと思ったのです!
だからこそやるべきことは、無理に醜いことをするのではなく、単に記憶に残るものを作るのではなく、過去にない新しいことをしていく。という事になるわけです!
人は新しいものよりも、慣れ親しんだものを選びがちながらも流行には敏感というなんとも天邪鬼な生物なので、芸術は常に流行の先にいて、流行を作り出していかなくてはならないのです。
そんな新しいものは案外私たちの生活の色んなところにあって広告やアプリ、ファッションや音楽なんかも流行は回ると言いますがその時代に合うスタイルでの流行提示があり、そう考えると新しいもので溢れていて、その背景には常に“新しい戦争”を戦ってきている作り手側が存在しています。
なにかを作り上げることだけに関わらず、表現することにも繋がることで、身近なことで言うと着る服やメイクと言った自分自身の表現にもつながっていて、流行より一歩先をいくようなアイテムや他とは一味違う着こなしが己の表現に少なくとも繋がっていて、ただここも派手であればいい、奇抜であればいい。が元ではなく背景にしっかりと世界観や表現したいことがあることが大事なのではないか。と思います。それが新しいことであり「前衛的である」ということなのではないでしょうか?
人生は日々が挑戦で新しいことに挑んでいく姿勢が自分をより育てていくとこの本を読んでより感じます。
“今日の芸術”には過去の芸術から今の芸術までのこと、技能と技術の違い、日本の古き芸能や芸術のいいところと悪いところなどかなり切り込んで鋭い視線から一つ一つとても丁寧にお話しされています。
この本は私のバイブルであり今後きっと何度も読み返すことと思います!
アヴァンギャルドに生きてやろうじゃないか。と思わせてくれるそんな本で、岡本太郎節が強く出る言い回しに笑いながらも何故か背筋がピシッと伸び自分の心に強い意志が芽生える瞬間を体験できると思うので是非気になる方は読んでみてください!
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