私が性を好きな理由。

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こんにちは、まりあんぬです。今回は性について書こうと思います。ずばり、「なぜ、わたしはセックス(性)が好きなのか」。「セックス(性)」が好きな理由が、必ずしも「すること」だけではないということを理解してもらうための記事になります。

 

セックスは基本「自分自身」のためにあります。たくさんの人が唱えているように、自分がどこが気持ちいいか、なにが気持ちくないのか、自分がどうありたいか、自分に問いかけ、自分を知ること、大切にすること。そして相手がいるのであればパートナーとコミュニケーションをしてみる。互いを思いやることにも繋がります。性は誰にも寄り添っているモノであり、誰もが一度は真剣に考えた方が良いです。しかし、今回書く記事は自分のためだけでなく、「客観的な性の楽しみ方をしている人もいる」ということを書こうと思っています。

まぁ、それがわたし、ということになりますね。

 

ずばり、「性」ってだけで、色々な面白さがあるのです。絵画における表現方法では、例えば、日本と西洋の考え方だけでもとても差があります。

西洋はヌードのという皮膚の表現が主であり、身体美や強さ(権力)、そして欲望という感情表現による芸術などがあります。

一方日本はその昔、まずヌードという概念がなく、代表的な春画も「笑絵」という性をコミカルに描いています。良い意味でも悪い意味でも性をタブー視する感覚はなく、また、皮膚の表現というよりは、衣服の模様、色合い、組み合わせ方を使い、物語への情報を伝えることに意味があったり、西洋の絵画ではメインの要素である皮膚は、基本性器以外は隠されているのも面白いポイントです。

 

性器の表現も独特で、西洋の場合はうまく隠した表現の仕方、もしくは男性の場合は童貞性の方が美しいとされるため、性器を小さく表現されます(「大きいには「愚かさ」「色欲」「醜さ」があると言われています)。かわって日本の場合、むしろ性器が誇張されるように描かれる、性器に性格を持たせることもあるのです。最終的には性器が顔になった春画も登場します。

 

また、

西洋の場合、その中心の被写体となるのは1人である場合が多のですが、春画の場合は性交している人物、つまり複数の人物が描かれます。春画の場合、女性や男性の単体の体をじっくりと見るようなものではなく、性交を見ることに重点を置かれているからです。西洋の場合、性交における点はタブーの意識があり、単体の皮膚から漂わせるエロティズムにこそ意味があります。性器の描かれていない皮膚で表現する西洋の絵画と日本の性器ばっちり見え見えの性交な春画、どちらにエロティズムが見えるかというと、西洋の絵画の方でしょう。春画はエロティズムというよりは「笑い」に重点を置かれ、性交は空気を吸うレベルで考えられているからです。変わって西洋はその禁欲的ななかにエロティズムをどう表現するかを重視しています。

 

とにかくこういった性に対する面白さと共に、わたしは、性のあらゆる表現を鑑賞します。なぜ私が性が好きなのかという理由がまずここにあります。もはや研究対象になっているのです。長い時代、性は人から離れることなく、様々な価値観があり、それを研究することが面白いと思っています。

 

またわたしは、性を鑑賞することにおいてとても好きなのが、感情の交差です。いわゆる少女漫画を読む感覚に少し似ています。感情が高ぶれば、お花が散る表現を少女漫画かが使うように、性の表現の場合、欲情のありかたは、皮膚や筋肉の動き、性器、文字のフォント、音であり、その表現は性交していない読者、つまり第三者にその感情を読み取ることができます。人とはよく作られていますね。

 

その表現も、 小説や、漫画の中であらゆる作家が表現を職人技術のように磨いています。日本は特にそういったものを個人レベルで発行することができる場が多いので、あらゆる表現の仕方を楽しめるのも一つ。決してムラムラするために読んでいるのではなく、驚きと発見がおもしろかったり、感動したりするのです。

つまりわたしは主観的な性、それだけでなく、客観的な立場から性を嗜んでいます。性の鑑賞は例えて言うならば、猫を見ているような、植物を愛でているような、ダンスやショーをみている感覚。私が主体として性の表現に感情移入するのではなく、あくまでも空気のような存在で楽しんでいるのです。                        

 

(しかしそれで変な間違えをして欲しくないのが、勝手に見せられるセックスはご法度である。わたしにも鑑賞する権利があるので、見たくないものは拒否をする。)

 

ここまで書いて、一般の方にはちょっと変態性を感じてしまい、引いてしまう方もいるかもしれませんが、性って鑑賞物でもあるのですよ。嗜めたりできるものですよ。そして意外にも、そういった楽しみ方をしている人は気がついていないかもしれませんが、不思議な不思議な日本では、大きなビジネスにもなっています。

 

しかし、わたしが最近社会的な部分に加担する理由として、そういった研究の対象の一歩先に踏み入りにくい現状があるから。おそらくちゃんと性は誰もが人間とともにあるものであること、そしてそこにはちゃんとした理解が必要であること、なにが間違っているのかを理解すること。ここをクリアしない限り、だれかと話し合ったり、もっと表面からみた性の研究が難しくなっていくのではと思っています。日本の性はおおらかで、性の知識が怠っていて、性に対して偏見がある今の捻れは、確かに面白い現状ではありますが、やはりあまりにも今の状態は被害があり過ぎると思っていますし、性欲に任せすぎたマーケティング的、消費物としての性の表現が多くなってしまい、つまらないもの(残酷なモノ)になってしまうと感じています。

 


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