私がオーストラリアに行って気づいた日本のこと

Posted on

 

こんにちは現在メルボルン滞在中のまりあんぬです。

オーストラリアに来て早6ヶ月、そろそろこの国の滞在も終わりとなって11月には日本に帰国します。2月にはまた違う国などに行く予定なんですけど、(その前に1月に-30度のモンゴルに行きますが)なぜまりあんぬはオーストラリアに行ったのか、そしてオーストラリアに行って何を感じたのかなど理由が気になる方は暇つぶしがてら読んでくくださいね。

 

単純な理由を書くと日本を一度離れてみたかったというのが一番の理由です。旅行としてではなく客観的に日本を見てみたいというのも理由です。単純に東京ぐらしに飽きたので、というのも理由です。海外に行きたいというよりは離れたいという気持ちが今考えると大きかったですね。

それで6ヶ月滞在して日本というか私の場合は(他の県のことをあまり知らないので)東京に絞って行った方がいい気もするのですが、気づいたことがあっていい意味でも悪い意味でも日本てものすごく個性に固執している国だなぁと思いました。

いやいや日本って個性殺しでしょ(学校の規則とか会社とか)と思った方もいると思いますが、なんというか海外と違った個性の認識をしているような気がしたんです。だからこそギランギランに個性を尖らせている人がいるととても目立つし、光るし(賞賛されるし)、叩かれもするし、逆にアイデンティティの自覚が低い人は自分の個性のなさにネガティブに捉える人もいるなぁと思いました。

たまたまアナザースカイ見てたんですけど、剛力彩芽さんがある悩みを持っていて、「自分がよくわからない」みたいなことを言っていました。その言葉を聞いてなんかそれってある意味東京っぽい悩みなんじゃないかって思いました。そして剛力さんが唯一自分を主張できる、好きな色は黒色と言いていたことも。自分のことなんてバラエティに出てくるタレントのキャッチフレーズほど一言で表せるものでもないはずなんですよね。でもどういうわけか、人単語で表せる人(個性)が求められる。それはある意味ファッションに関しても。

オーストラリアはすごく多国籍な国で、オーストラリア人もいるし、アジアもいるしヨーロッパもいるし、中東、とにかくいろんな国の人がいます。だからこそ、髪色とか肌の色とか自分が何人かとかタトゥーとか関係ないし、その辺に関してはどうでもいい、注目することでもないといった感じです。だからその目立つアイコン自体、東京が固執して思う「個性」でもないし、トレード・マークでもないし、それをしたからって光るわけでも叩かれるわけでもなにか言われるわけでもないという感じです。

実は私も剛力さんのように「自分がわからない」と思ったことがあります。好きな色も特にないし、ファッションもとても流動的で、アイデンティティとして着ているわけでもない。自分らしさがない。でも最近はなんかもうちょっと、そのとき自分がいいなと思うスタイルに、流動的に、その時自分を信じれるものを信じていけばいいのではないかとは思っています。

東京の人が思うほど、プライド高く自分らしさを明確にする必要もあんまりないのかなと思いました。なんかもっと単純に生きていい気がしますね。逆に言えばこれぞ俺!というプライドと個性の強い人は日本の方が光るのでは、とも思いますね。

 


またちょっと違う話に成るんですが、丸山ゴンザレスさん(世界の闇に体当たりするジャーナリスト)の雑誌ダ・ヴィンチのインタビュー記事を読んだんですが、とても興味深い内容が記載されていました。(記事:https://ddnavi.com/interview/490156/a/

「ニューヨーカー」という言葉は、出身地を表すのではなく、ニューヨーカーであろうとするアティテュードのことなんだそうです。だからニューヨークには自由な空気が維持されているし、他人に親切にしたりかっこいい自分であろうとします。

なんというか演じているんです「ニューヨーカー」を。それは決して悪いことではなくて、理想のニューヨークを作り出そうとすることで世界が憧れる町は維持される。それはとても大切なことだと丸山氏は言っています。

これは東京生まれ東京育ちのマリアンヌが東京で感じていた疑問でもあります。東京生まれ東京育ちのマリアンヌよりも地方出身の東京住みの友達の方が東京を満喫しているんですよね。東京人らしいというか。東京を楽しんでいるというか。これをいうと地方の人に何か言われそうですが、地方の人が作ったブランドほど「tokyo」がつくし、私は生まれてこのかた東京バナナ食べたことないんですがちゃんとみんな食べている。(これはあくまでも私の偏見(笑))その面白さの記事がこの記事を読んでなんだか解決しました。出身の人云々関係なしに「東京人」が「東京人」を演じて、「東京」という魅力を発信し、消費している。だからこそマリアンヌのような演じきれない人(その都市らしさに興味のない人)はギャップを感じて、住み辛さを感じている。

そういう人はもしかしたらなりきりたい場所に移り住んで、その場所の人を演じればいいし、もしくは、なににもなりきらない勇気を持つことが大事なのだとおもいました。

・・・と、この話は特にオーストラリアで感じた話ではないんですけど(笑)ちなみに私は特にオーストラリアンを演じたわけでもないし(行きたい国というよりはたまたま行った国という認識が強い)多国籍の多いオーストラリアだからこそ日本人を演じたわけでもなかった。ある意味オーストラリアはそういった意味では自分にいい影響を与えてくれた国だなと思いました。

 

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

◀ このブログのトップページへ